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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>ワンポイントばいぶる</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/" /><modified>2008-07-06T22:35:34+09:00</modified><tagline>聖書のことばを分かりやすく</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>もうひとりの助け主</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=469151" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=469151</id><issued>2007-01-26T01:33:36+09:00</issued><modified>2007-01-31T14:12:31Z</modified><created>2007-01-25T16:33:36Z</created><summary>　「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14章16節)これはイエス・キリストが十字架を前にした最後の晩餐で、心を動揺させている弟子...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14章16節)これはイエス・キリストが十字架を前にした最後の晩餐で、心を動揺させている弟子たちのために語られた約束の言葉ですその約束の中心は「もうひとりの助け主」が与えられるということです。<br />
<br />
　弟子たちにとってイエス様がいなくなること、それも十字架という残酷な処刑によって取り去られることは、とうてい受け入れられないことでした。それが現実となったときには、だれ一人耐えられない苦悩に押しつぶされると恐れたのです。そんな弟子たちに「もうひとりの助け主」と表現されている聖霊なる神様が約束されているのです。パラクレトスという言葉を使って、困難なときこそ私たちの一番近くにいて力づけてくださる方と強調しています。<br />
<br />
　しかも、この助け主が与えられるためにイエス様が「父にお願い」してくださったのです。もし私たちが自分で祈り求めなければならないとしたら、とても助け主が与えられると期待出来ないことでしょう。私たちの祈りは、そんなに力強いものでありませんし、神様に聞き入れられるような資格を私たちは持ち合わせていないからです。でも、イエス様がお祈りして下さったのです。今も、私たちには「パラクレトス」が与えられています。]]></content></entry><entry><title>神の力に支えられる信仰</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=464789" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=464789</id><issued>2007-01-18T15:52:09+09:00</issued><modified>2007-01-20T11:07:21Z</modified><created>2007-01-18T06:52:09Z</created><summary>　子どもの時に読んだ「トンチ」の本に、「一番大きな話し」を自慢しあう物語がありました。一人の人は、富士山を腰掛けにして休憩する人の話をしました。次の人は、その富士山に腰掛けている人を、指でつまんで持ち上げる人の話をしました。そのようにして、次々と話しが...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　子どもの時に読んだ「トンチ」の本に、「一番大きな話し」を自慢しあう物語がありました。一人の人は、富士山を腰掛けにして休憩する人の話をしました。次の人は、その富士山に腰掛けている人を、指でつまんで持ち上げる人の話をしました。そのようにして、次々と話しが大きくなっていきました。<br />
<br />
　そんなことを思い出したのは、タイトルに上げた聖句「あなたがたの持つ信仰が…神の力に支えられるためでした。」（?コリント２章５節）を読んだ時でした。そして、心の中で、はたして「一番重いもの」は何だろうか？と問いかけていました。トンチではありませんが、しばしば「悲しみに沈んだ心」はどんな大きな機械でも引き上げることが出来ない、と言われます。<br />
<br />
　私たちの心と信仰が悩み悲しみにうちひしがれ、重く沈み込んでどうにもならないと思われる時にも、神様は私たちを見離さずに支えてくださる神様です。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」主は、私たちの心と信仰を神の力によって支えてくださる方です。今年も、辛く悲しい時こそ、神様に支えられていることを覚えて希望をもって進みたいと願います。]]></content></entry><entry><title>クリスマスから始まった生活</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=451540" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=451540</id><issued>2006-12-28T09:31:56+09:00</issued><modified>2007-01-31T14:13:53Z</modified><created>2006-12-28T00:31:56Z</created><summary>　「八日が満ちて…」「モーセの律法による…」「律法の慣習を守るため…」ルカ２章２１節からの箇所に記されているこれらの言葉は、クリスマスを越えて始まったイエス様の生活を特徴づけています。御使いが歓喜に満ちて救い主の御降誕を告げ知らせ、天のコワイヤがグロリヤ...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　「八日が満ちて…」「モーセの律法による…」「律法の慣習を守るため…」ルカ２章２１節からの箇所に記されているこれらの言葉は、クリスマスを越えて始まったイエス様の生活を特徴づけています。御使いが歓喜に満ちて救い主の御降誕を告げ知らせ、天のコワイヤがグロリヤ・イン・エクシェルシス・デオを高らかに賛美した後の生活です。まだ興奮冷めやらないとしても不思議ではありません。<br />
<br />
　しかし、ここに記されている言葉は、ヨセフとマリヤ、それに嬰児のイエス様たちが、ごくごく平凡な生活に戻っていること、特に律法に従った生活を淡々と送っていることを示していると思います。クリスマスの日に味わった霊的な高揚感は到達点ではなかったのです。そこから神様の使命を担う歩みが始まったのです。その歩みは、コツコツと聖書に従うことによって維持される歩みです。<br />
<br />
　ピリピ人への手紙２章には、イエス様が「神の御姿である方なのに」神としての全ての栄光と「特権を主張されずに（ご自分を無にして）」私たちと同じ人となってくださった、と記されています。クリスマスを越えて始まったイエス様の御生涯に、その平凡な生活の中に、主のへりくだりが息づいていることを見ることが出来ます。私の平凡な日々も、御言葉に従う謙遜な心で過ごしたいと願います。]]></content></entry><entry><title>顧みてくださる神様</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=447476" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=447476</id><issued>2006-12-21T14:46:28+09:00</issued><modified>2007-05-12T05:10:57Z</modified><created>2006-12-21T05:46:28Z</created><summary>　クリスマスにあふれている賛美の一つに、老ザカリヤの賛歌があります。「ほめたたえよ…」という歌い出しからベネディクトゥスと名付けられているさんびです。その冒頭に「主はその民を顧みて…」(ルカ1章68節)と歌っています。神様がどういうお方か、ということがザカリ...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　クリスマスにあふれている賛美の一つに、老ザカリヤの賛歌があります。「ほめたたえよ…」という歌い出しからベネディクトゥスと名付けられているさんびです。その冒頭に「主はその民を顧みて…」(ルカ1章68節)と歌っています。神様がどういうお方か、ということがザカリヤの賛美を生み出していることがわかります。<br />
<br />
　「顧みて」という言葉は、「訪ねる」とも訳されています。常に心に留め、イザッという時には駆けつけてくれる、というのが「顧みる」という言葉の意味です。クリスマスは、私たちのことを常に心に留めていてくださった神様が、とうとう訪ねてきてくださったことを意味しているとザカリヤは感動と共に賛美しているのです。<br />
<br />
　今も神様は私たちのことを「顧みて」いて下さるお方です。クリスマスの季節は、そのことを私たちに目に見える形で示してくれます。馬小屋の飼い葉桶にまで低くなってくださったキリストは、私の所にも駆け付けてくださる主であることを表しています。その事を心に留め、クリスマスの賛美に加わりたいと思います。]]></content></entry><entry><title>神にとって不可能なことは一つもありません。</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=443478" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=443478</id><issued>2006-12-14T20:05:27+09:00</issued><modified>2007-03-07T04:51:24Z</modified><created>2006-12-14T11:05:27Z</created><summary>　これは、ルカの福音書１章に記されている「マリヤの受胎告知」で御使いがマリヤに語った言葉です。それに対するマリヤの応答「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」は、自分の全てを神様に献納したうるわしく...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　これは、ルカの福音書１章に記されている「マリヤの受胎告知」で御使いがマリヤに語った言葉です。それに対するマリヤの応答「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」は、自分の全てを神様に献納したうるわしくも力強い信仰の模範として私たちの心に挑戦を与えます。<br />
<br />
　しかし、そのマリヤの信仰の応答は最初から何の苦労もなく出てきたものではありません。最初に御使いが「おめでとう、恵まれた方。」と声をかけた時、マリヤは、ひどくとまどい考え込み、恐怖さえ抱いたと描写されています。さらに、御使いが「おめでとう」と祝福を伝えた言葉の中身を説明した時には「どうしてそのようなことになりえましょう。」と、とても不可能なことではという印象を口にしてしまいました。<br />
<br />
　自分の全てを神様にささげた模範であるマリヤは、そこに至るまでに様々な戸惑いや不安、困惑や恐れを覚えたという点で、私たちと似ているとも言えるでしょう。神様は、不安を感じているマリヤに失望たり責めたりしないで、「不可能なことは一つもない」とご自身の全能を示してくださいました。その言葉に愛と熱意が満ちていたからこそ、マリヤは自分の全てを神様に委ねることができたと思います。]]></content></entry><entry><title>神様の「しかし・・・」</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=438747" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=438747</id><issued>2006-12-07T10:18:35+09:00</issued><modified>2006-12-07T01:18:35Z</modified><created>2006-12-07T01:18:35Z</created><summary>　「飼い葉桶の嬰児」や「東方の博士たちの礼拝」など、クリスマスに「どういうことがあった？」は、主にマタイとルカの福音書の記述を通して伝えられています。一方、ヨハネの福音書には、クリスマスの「なぜ？何のために？」が壮大なスケールを背景に述べられています。...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　「飼い葉桶の嬰児」や「東方の博士たちの礼拝」など、クリスマスに「どういうことがあった？」は、主にマタイとルカの福音書の記述を通して伝えられています。一方、ヨハネの福音書には、クリスマスの「なぜ？何のために？」が壮大なスケールを背景に述べられています。心の暗闇に捕らえられ、神のいのちから断たれている私たちに、いのちの光をもたらすため、というのです。<br />
<br />
　ところが、永遠の存在である神の御子が、まことの光として私たちのところに来て下さったのに、人々は神の愛に満ちた救いの手を全く拒絶している、というのです。「飼い葉桶の嬰児」の「なぜ？」が説明されています。クリスマスの微笑ましい光景として印象づけられている「飼い葉桶の嬰児」は、神様の愛と恵みに対する私たちの冷たい拒絶の表れです。<br />
<br />
　ヨハネは、このように人の心の暗闇と神に対する頑なさを明らかにしながら、その次に神様の宣言を続けています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」（ヨハネ１章１２節）「飼い葉桶の嬰児」は、神に対する人の心の暗さと同時に、それでもなお愛してやまない神様の愛の深さを伝えています。今年のクリスマスも、神様は私たちに「しかし・・・」と手を差し伸べていて下さいます。]]></content></entry><entry><title>星に導かれた博士たちの喜び</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=434858" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=434858</id><issued>2006-12-01T00:51:19+09:00</issued><modified>2006-11-30T15:51:20Z</modified><created>2006-11-30T15:51:19Z</created><summary>　クリスマスの光景になくてはならないのが「東方の博士たち」の姿です。どこの誰か、どういう人か、などは全く分かりません。でも、その博士たちの行動から多くのことを学びます。特に、クリスマス（神様の恵み）から遠く離れていて、全く無縁とさえ思われる人々に対して...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　クリスマスの光景になくてはならないのが「東方の博士たち」の姿です。どこの誰か、どういう人か、などは全く分かりません。でも、その博士たちの行動から多くのことを学びます。特に、クリスマス（神様の恵み）から遠く離れていて、全く無縁とさえ思われる人々に対しても、神様は喜んで導き招いてクリスマスにあずからせてくださることを明らかにしていると言うことができます。<br />
<br />
　この博士たちは、星に導かれてユダヤの国までやって来ました。キッカケは、不思議な星の出現に関心を持って調べた結果、聖書の一節に、ユダヤの王の誕生に関わる星の出現が記されているのを発見したことのようです。それにしても、そんな「小さな手がかり」で、よくも危険に満ちた遠い旅をしたものと感心します。そのような「冒険」に対して、神様は喜んで見ておられたようです。ベツレヘムに向かう博士たちに、もう一度「星」によって先導してくださったからです。<br />
<br />
　「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」（ﾏﾀｲ2章10節）と記されています。まだ、目的の「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」にお会いする前の、この「この上もない喜び」は、神様に導かれて旅をする喜びと言うことができるでしょう。私たちの人生において、願っているとおりに事が進まない時でも、神様が導いてくださる、という確信は私たちの心に不思議な落ち着きと喜びをもたらしてくれます。神様の導きに従った博士たちに学ぶ今年のクリスマスでありたいと願います。<br />
<br />
　]]></content></entry><entry><title>主は生きておられる</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=420938" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=420938</id><issued>2006-11-10T13:22:44+09:00</issued><modified>2006-11-10T04:25:01Z</modified><created>2006-11-10T04:22:44Z</created><summary>　旧約聖書の?列王記17章に、預言者エリヤとツァレファテのやもめの二人が、同じ言葉「主は生きておられる。」（1節、12節）を口にしています。預言者エリヤは、アハブ王に対する干ばつの宣告に際して述べています。ツァレファテのやもめは、厳しい飢饉の中、最後に残った...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　旧約聖書の?列王記17章に、預言者エリヤとツァレファテのやもめの二人が、同じ言葉「主は生きておられる。」（1節、12節）を口にしています。預言者エリヤは、アハブ王に対する干ばつの宣告に際して述べています。ツァレファテのやもめは、厳しい飢饉の中、最後に残った一握りの粉でパンを焼いて、それを食べたら息子と死を待つだけ、という事情の説明に際して述べています。<br />
<br />
　両者とも、「主は生きておられる。」という信仰の確信を述べるにしては、ふさわしくないような苛酷な状況のように感じます。もし、私が「主は生きておられる。」と力強く信仰の告白をするとしたら、それは、神様からの祝福で満たされ、感謝と喜びで心が幸せを満喫している時ではないかと思いました。もちろん、そのような時に心へりくだって神様に感謝を捧げることも大切です。<br />
<br />
　しかし、激しい試練や困難のまっただ中で、なおも主の最善を信じて主に信頼をする信仰もまた大切なものと思います。自分の願い通り、思い通りに事が進んだ時だけ神様が「生きておられる」と感じて賛美する信仰から、思いがけない試練や困難に取り囲まれた時にも、なお「主は生きておられる」と希望を失わない信仰へと成長する者でありたいと願います。]]></content></entry><entry><title>ほんの小さな事にも忠実だったから</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=414464" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=414464</id><issued>2006-11-02T00:10:13+09:00</issued><modified>2006-11-01T15:10:13Z</modified><created>2006-11-01T15:10:13Z</created><summary>　ルカの福音書19章で、ザアカイの回心の記事に続いて、イエス様が話された「ミナのたとえ」があります。マタイの福音書に記されている有名な「タラントのたとえ」と似ているところも多いのですが、違う点に心が留まります。その一つが、帰ってきた主人の喜びの言葉です。...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　ルカの福音書19章で、ザアカイの回心の記事に続いて、イエス様が話された「ミナのたとえ」があります。マタイの福音書に記されている有名な「タラントのたとえ」と似ているところも多いのですが、違う点に心が留まります。その一つが、帰ってきた主人の喜びの言葉です。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから…。」<br />
<br />
　しばしば私たち信仰者も、神様に喜んで頂くためには何か特別大きな事をしなければならない、と思いこんでいることがないでしょうか。しかし、ミナのたとえに強調されている神様の喜びは、目を見張るような大きな事をしたからではなく、「ほんの小さな事にも忠実だった」ということです。大きな事をしなければ神様から評価して頂けないのでは…という思いは、一般社会の評価基準ではないでしょうか。<br />
<br />
　時として信仰の熱心のあまり、神様のために何か大きな事をしたいと願いながら、その意に反して何にも出来ない自分に失望してしまうことがあります。しかし、神様が喜んでくださるのは、「ほんの小さな事」を忠実に心を込めて継続することです。小さな祈り「神様、今日も助けて下さい。私と共に歩いて下さることを信じ感謝します。」を捧げ続ける時、私たちは神様に喜んで頂けるのです。<br />
<br />
　]]></content></entry><entry><title>パウロの弱さ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=410661" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=410661</id><issued>2006-10-27T16:01:15+09:00</issued><modified>2006-10-27T12:38:43Z</modified><created>2006-10-27T07:01:15Z</created><summary>　使徒パウロについて私たちが抱くイメージは、大胆で積極的、困難や試練に対しても決して屈しない力強い信仰者…というものでしょう。そのイメージは、決して根拠がないものではなく、パウロの宣教生涯からも、またパウロ自身の証からも裏付けられるものです。コロサイ人...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　使徒パウロについて私たちが抱くイメージは、大胆で積極的、困難や試練に対しても決して屈しない力強い信仰者…というものでしょう。そのイメージは、決して根拠がないものではなく、パウロの宣教生涯からも、またパウロ自身の証からも裏付けられるものです。コロサイ人への手紙では「自分のうちに力強く働くキリストの力によって労苦しながら奮闘しています。」と述べていますし、信仰の後継者ﾃﾓﾃに対しては「神が与えて下さったのは臆病の霊ではない…神の力によって、福音のために私と苦しみを共にして下さい。」と励ましています。<br />
<br />
　そのような勇気あふれる宣教者パウロですが、同時に自分の弱さをさらけ出すことしばしばでした。コリント第二、12章には、パウロの弱さがありのまま告白されています。また、コリント第一、２章３節には「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」と語っています。パウロの反対者批判者には、またとない批判の種を提供するような告白です。なぜ、パウロは自分に不利となるような「弱さの告白」をしているのでしょうか？<br />
<br />
　それは、パウロ自身が神様の前に出るときは、いつでも「弱いパウロ」として出ていたからではないかと思います。「弱いパウロ」は「祈りの座に出る時のパウロ」ということが出来ます。そこで私は、自分が神様の前に出る時、祈りの座に出る時、どういう私だっただろうか、と考えさせられました。精一杯自分を良く見せていたのではないか、と反省しています。そうではなく、神様の前には「ありのままの弱い自分」でありたいと思います。]]></content></entry><entry><title>神様は「大いなる方」</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=405119" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=405119</id><issued>2006-10-19T11:42:12+09:00</issued><modified>2006-10-19T02:42:13Z</modified><created>2006-10-19T02:42:12Z</created><summary>「それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。」（?サムエル７章２２節）…これは、ダビデが感謝とともに驚きの告白をしている言葉です。ダビデが驚いている神様の偉大さは、その偉大な奇跡の御業や、目を見張るようなスケールの大きい働きが理由ではありません。自分の...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[「それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。」（?サムエル７章２２節）…これは、ダビデが感謝とともに驚きの告白をしている言葉です。ダビデが驚いている神様の偉大さは、その偉大な奇跡の御業や、目を見張るようなスケールの大きい働きが理由ではありません。自分のような取るに足りない者に目を留めて測りしれない恵みを注いでくださった、ということを実感したからです。その数節前のところでダビデは「神、主よ。私がいったい何者でり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。」と告白しています。<br />
<br />
　聖書を通して教えられる神様は、確かに能力、知恵、権威、栄光において測りしれないほど偉大です。まさに、私たちのような者が近づくことさえ畏れ多いお方です。でも、そんな偉大であるにもかかわらず、私のような小さく取るに足りない存在に心を留めてくださり、救いの手を差し伸べて下さった愛と恵みこそ、神様の偉大さの中心だ、というのがダビデの告白です。<br />
<br />
　そのような意味からすると、神様の偉大さは、私たちの将来にも希望の光を照らしてくれます。神様の前に出る勇気を失うような挫折や失敗の中に落ち込むようなことがあっても、神様は私たちに優しく手を差し伸べて回復をあたえて下さる「大いなる方」だからです。]]></content></entry><entry><title>ルツの「ありがとう」</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=393696" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=393696</id><issued>2006-10-05T01:44:18+09:00</issued><modified>2006-10-04T16:45:59Z</modified><created>2006-10-04T16:44:18Z</created><summary>　ルツは、聖書に登場する女性の中でも、最も有名で慕われている女性の一人でしょう。義母ナオミを助けるため落ち穂拾いに出かけ、農夫たちが驚きの声をあげるほど一生懸命に労している姿が印象的に描かれています。そのようなルツに対して、破格な好意を示したのがボアズ...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　ルツは、聖書に登場する女性の中でも、最も有名で慕われている女性の一人でしょう。義母ナオミを助けるため落ち穂拾いに出かけ、農夫たちが驚きの声をあげるほど一生懸命に労している姿が印象的に描かれています。そのようなルツに対して、破格な好意を示したのがボアズでした。ご承知のように、この二人はダビデ王の曾祖父と曾祖母になるという心温まるエピソードがルツ記に記されています。<br />
<br />
　ルツ記２章１３節に「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。」というルツの言葉が記されています。これは、ボアズが申し出た破格な好意に対して、その申し出をそのまま受けるという、つまり「ありがとうございます」という意味の言葉です。生活の手段を持たない貧しい者に許された「落ち穂拾い」をしているルツの立場からすると、感謝はもちろんですが、何とも勇気のいる素直な返事と言うことができます。<br />
<br />
　聖書に言う「信仰」とは、一面、神様の恵みに対して単純に「ありがとうございます」と応えること、と言われます。まさにルツは、その模範と言えます。だからこそ、多くの人々に慕われているのでしょうし、また神様はこのルツを救い主の家系に入れている（マタイ１章）のではないかと思います。]]></content></entry><entry><title>「アバ…」</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=388567" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=388567</id><issued>2006-09-28T00:33:06+09:00</issued><modified>2006-09-27T15:33:06Z</modified><created>2006-09-27T15:33:06Z</created><summary>　「アバ」という言葉は、ユダヤの社会で幼児が一番最初に口にする言葉の一つと言われています。それは自分の父親に対する呼びかけの言葉です。さしずめ英語で言えば「ダダ」でしょうか？日本語では「パパ」（そもそも日本語ではないのですが）？日本の子どもたちは、むし...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　「アバ」という言葉は、ユダヤの社会で幼児が一番最初に口にする言葉の一つと言われています。それは自分の父親に対する呼びかけの言葉です。さしずめ英語で言えば「ダダ」でしょうか？日本語では「パパ」（そもそも日本語ではないのですが）？日本の子どもたちは、むしろ「まま」という言葉の方が多いように思います。それは食べ物を意味する「んまんま」であったとしても、母親には「ママ」に聞こえるのでしょう。「ダダ」よりも「ママ」と言った方が、家庭は安泰のようですが…。<br />
<br />
　そのような「アバ」という言葉が、イエス・キリストのゲツセマネの祈りに使われています。十字架を目前にし、心身共に苦悩の極限にあった時、父なる神様への祈りの言葉として出てきたのが「アバ」だったのです。多分、イエス様も幼児の時に最初に口にしたのが、この「アバ」だったでしょう。そして、横暴な敵対者によって人生の最後を迎えさせられようとしていた時、その口から出たのも「アバ」という父なる神様への呼びかけでした。<br />
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　何の飾り気もなく幼子のような心で神様の前に出て行くこと、それが私たちの信仰の原点であることが模範として示されているように思います。何かが出来たとか、能力的に成長した自分ではなく、ただ幼子のような弱く無力な者として父なる神様のふところに飛び込んでいく…悲しみの心、苦しみに押しつぶされている心のままで。父なる神様は、そんな私たちを両手を広げて迎え入れて下さる愛に満ちたお方です。神様とのこのような愛の関係こそが、私たちの支えとなる信仰です。]]></content></entry><entry><title>祈りながら夜を明かされたイエス様</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=358835" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=358835</id><issued>2006-09-15T03:14:09+09:00</issued><modified>2006-09-14T18:17:54Z</modified><created>2006-09-14T18:14:09Z</created><summary>　このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から１２人を選び…（ルカ６章１２、１３節）

　イエス様に対する反感と敵意が高まる中、１２人を選び出し使徒として任命することは、イエス様にと...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から１２人を選び…（ルカ６章１２、１３節）<br />
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　イエス様に対する反感と敵意が高まる中、１２人を選び出し使徒として任命することは、イエス様にとっても、また選ばれる１２人にとっても重要なことでした。その大切な決断の時、イエス様は「神に祈る」という力強い支えと助けを活用したのです。私たちにとっても、大切な決断の時には、神様に祈ることこそ何よりの助けと支えです。<br />
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　ところが、ここでその祈りに対する神の答えとして示されたのが、いわゆる１２使徒と呼ばれる面々でした。何かにつけ失敗するペテロや、すぐにカッとするヤコブとヨハネの兄弟、それに疑り深いトマス、おまけにイスカリオテ・ユダが含まれています。どう見ても、ベストメンバーとは考えられないような神様の提示です。しかし、使徒パウロが、神様の恵みの大原則として「弱さのうちに完全に現れる」と述べている通りのメンバーのように思います。<br />
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　そのようなメンバーのために「祈りながら夜を明かされた」イエス様は、今も私のような取るに足りない者のために、祈り続けていて下さることを覚えます。弱さにうちひしがれる時、とても自分には身分不相応な重荷が課せられる時、そんな私のために夜を徹して祈って下さるイエス様がいることを忘れないようにしたいと思います。そして、私も神様の恵みを心から祈り求めたいと思います。]]></content></entry><entry><title>ヨセフはまだ生きています</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=352088" /><id>http://1-bible.nagaoka-church.com/?eid=352088</id><issued>2006-09-06T17:20:11+09:00</issued><modified>2006-09-06T08:20:11Z</modified><created>2006-09-06T08:20:11Z</created><summary>　冒頭の言葉は、飢饉に襲われ、二度目の食料買い出しにエジプトへ行ったヨセフの兄たちが、父ヤコブのもとに帰って来て語った言葉です（創世記45章26節）。同じ兄たちは、20年前に弟ヨセフに対する嫉妬と憎悪から、エジプトへ向かう隊商にヨセフをドレイとして売ったので...</summary><author><name>勝間田　充夫</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　冒頭の言葉は、飢饉に襲われ、二度目の食料買い出しにエジプトへ行ったヨセフの兄たちが、父ヤコブのもとに帰って来て語った言葉です（創世記45章26節）。同じ兄たちは、20年前に弟ヨセフに対する嫉妬と憎悪から、エジプトへ向かう隊商にヨセフをドレイとして売ったのです。そして、何くわぬ顔でヨセフが獣に襲われたのでは…と父ヤコブにウソをついたのでした。<br />
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　つまり、この言葉は、兄たちにとって「20年前のウソ」を自ら告白する言葉と言えます。聖書には、告白しないで「黙って」いる時の心の苦しみは、「骨々」が疲れ果てる（詩篇32）もの、と描写されてます。兄たちは、この告白でどれだけ心の重荷が軽くなったことでしょう。神様の前に心の奥底の罪や過ちを告白することができるよう、祈り求めたいと思います。<br />
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　この言葉は長年の罪の告白だっただけでなく、同時に、父ヤコブにとってはあきらめていた息子ヨセフが生き返ったような喜びの知らせでした。悲しみと絶望以外の何ものでもなかった「ヨセフ」が、神様の御手の中で保たれていたのです。私たちの生活の中でも、とっくにあきらめてしまった「ヨセフ」のような問題や課題が、神様の御手の中で「まだ生きている」という信仰をもたせて頂きたいと願います。特に、家族や友人たちの救いと信仰の回復のため、神様の最善の御業を信じ続けて行こうではありませんか。]]></content></entry></feed>